Anriの日記
2017-05-06T13:51:51+09:00
anrianan
自然流心地良い生き方を模索して年中無休の創意工夫ライフ。自家菜園で無農薬野菜に挑戦する一方、シティライフも捨てられない。美しき時空間を求めて徒然なるままに綴る気まぐれ日記
Excite Blog
3年
http://anrianan.exblog.jp/24151785/
2017-05-06T13:30:00+09:00
2017-05-06T13:51:51+09:00
2017-05-06T13:30:19+09:00
anrianan
■住まい
最初は「余計なお世話」と思っていたが、このごろは天候をはじめ、自分をとりまく生活環境の違いや変化を比べることができて、これが結構楽しい。
さて、前回の母の介護記から4ヶ月ぶりの更新。
まだ、母は生きております。
よく食べ、よく眠り、よくしゃべり、よく出す……。いわゆる、快食快眠快(弁?)便というやつです。
在宅介護を体験している身としては言いたいこと山ほどあれど、本日は冒頭の「過去の思い出」がらみの話をいたします。
3年前の5月6日に、アロエの大伐採をやっておりました。
実は、数日前にその時のことを思い出しながら、再びアロエを剪定していました。
ただ3年の月日というものは、とてつもない変化を起こすもので、現在アロエの傍らには広いテラスがあり(すでに1年くらい前に作りました)、その向こう側の地面に石を敷き詰めました。
テーブルのティーは、干したペパーミントにステビア草を加えたものです。(ステビア草は肝臓にいいらしいのです)
昔フランス在住のCOCOさんに教えてもらったサン・ティー(太陽の熱で淹れる水出し茶)を作ってみました。
雑草のように(元)畑を占領しているミントを移植しながら、切り取ったミントは母に葉っぱだけちぎってもらいました。
ええ、仕事があると元気が出る母なので、こうして孝行娘は仕事を作ってあげているのです。(余談ですが)
少しずつ、ミント畑を野菜畑に戻そうと思います。
面積は結構広いほうだと思いますが、周囲の木々が育ち、日当たり良好地はかなり限られているので、苗の植え付けに頭を抱える日々です。
とはいっても、昨年5月3日に母が体調を崩して以来のことを考えたら、苗の植え付けなど楽しみとしかいえません。
本日、母は午前中だけデイサービスに行っています。
肝臓が徹底的に悪くなっているので、どうしても半日になってしまいます。
それでも、私にとってはつかの間の休息、かな?……
明日も晴れますようにっ! ぽちっと応援お願いね。d(^0^) ↓ ↓ ↓人気ブログランキング
]]>
母、転院する
http://anrianan.exblog.jp/23769468/
2017-01-09T11:57:38+09:00
2017-01-09T11:57:40+09:00
2017-01-09T11:57:40+09:00
anrianan
■とりあえず日記
療養病棟を持ついくつかの病院から、この病院を選択した大きな理由は、家に近いこと。
山を降りて海岸に出るとポンポン船(浦賀の渡し)があり、そのポンポン船で細長い浦賀湾を渡った向こう岸に、その病院はあります。
病室の窓からは房総半島が望めました。
いつもいる場所の反対側から眺めた風景。 おもしろいですね。
海外に行くと日本がよく見えるとか、日本の良さが分かるという話を聞きますが、人生のすべてにおいて同じことが言えるのかもしれません。今の自分と反対側の立場に立ってみると、いいこともあれば悪いこともある。
想像上では実感にいたらず、実感しないと「分かる」という言葉を使えないのかもしれないと思ったりします。
あの山の上のちょっと向こう側にわが家はあります。
母は60歳で蜘蛛膜下出血になるまで、約15年間浦賀病院で働いていました。
以前の病院は浦賀駅前にあって便利でしたが、現在はバス停3つ分ほど離れた場所にあるのでシャトルバスが出ています。
母が病院を離れてから20年経ちますが、当時から働いている人が何人かいらして、次々母の病室に会いに来てくれました。
懐かしい人たちと会い、話していると俄然元気になっていくように見えました。
ああ、これで安心……
きっと意識もしっかり戻ってきて、これで食欲が戻れば元気になるに違いありません。
たとえ肝硬変や多機能不全といわれても、わずかでも機能している細胞が活発に働いてくれるのではないか。素人考えですが、そう期待せずにはいられませんでした。
家からも近いし、これなら毎日来るにしても大分楽になります。
ああ、よかった……
と安堵したのでした。それを裏付けるかのように、面会の前にクックを連れて周囲を散歩していると、大きな虹が空いっぱいに広がりました。 うわぁ~!
人生、山あり谷ありか……
束の間の「山」であったことは、後に知ることになるのですが……
折れそうなワタシにガンバレ~!!! と応援のポチッをお願いね!d(´ー`;)
→→→人気ブログランキング
]]>
あけましておめでとうございます
http://anrianan.exblog.jp/23754111/
2017-01-01T12:12:00+09:00
2017-01-01T13:03:53+09:00
2017-01-01T12:55:16+09:00
anrianan
■とりあえず日記
とりあえず新年のご挨拶と、現状をチラリとお知らせしておきます。
現在母を在宅で介護をしております。
夜中の2時から3時に一度起き(時には2度起き)、朝は6時から6時半に起床してオムツを替える生活が2ヶ月になろうとしています。
母の認知症が刻々と進んでいるのか、自分でオムツを取ってしまうことが頻繁になりました。
当然、糞尿が寝具やパジャマに付着します。臭いも強烈です。
そのたびに私は絶望し、母に暴言を吐き、母も落ち込み、その母を見て罪悪感に駆られ、ということが何十回となく繰り返され、私は慢性的睡眠不足と精神的・体力的な限界を感じつつあります。
年末年始などなく、正月の用意も一切する余裕もありません。
帰省した愚弟は山盛りの正月料理(パック詰め)を買ってきましたが、従来の正月のように何も用意できないし、食卓に並べる気力もないのです。そういう状況を把握できない可哀想な愚弟は、昨夜怒って帰っていきました。
大威張りでしたけど大黒柱だった父が亡くなって、こんなにも簡単に家族が崩壊するのだと驚いています。
父という怖い存在がいた時には我を出さなかったというだけで、互いに思いやっていた家族ではなかったということですね。
恐怖政治と同じ。 家族や会社、学校などの集団は、世界国家の縮図ですね。
以上、元旦到着の年賀状が書けなかった長い長い言い訳を終わります。
これから一枚ずつゆっくりと、時間を見つけて書きますので少し先になりますが、どうぞお許しのほどを・・・
皆さまの健康と幸せな日々を、そして世界の平和を祈りつつ、新年のご挨拶とさせていただきます。
あんり
了解! という方、初ポチッをお願いね!d(´ー`;)
→→→人気ブログランキング
]]>
肝性脳症 (Hepatic encephalopathy)
http://anrianan.exblog.jp/23680619/
2016-12-14T13:18:00+09:00
2016-12-17T11:42:25+09:00
2016-11-30T16:10:47+09:00
anrianan
■とりあえず日記
このまま目覚めなかったら、という不安を抱きながらその後病院に何度も足を運びました。
ありがたかったことは、個室に移されたので面会時間に関係なく訪れることができたこと、そして1時間でも2時間でも傍にいられたことです。その間、母の意識は聞いていると信じ、何度も呼びかけ、話しかけました。
時におナカさんの目尻から涙が流れるように見えたのは、気のせいだったのでしょうか……
母の意識が戻ったのは、2日後の12日(火)。
私はその日仕事を休ませてもらい、10時ごろだったでしょうか、病室のドアを開けると看護師さんの一人が
「ナカコさん、目が覚めてますよ」
とにっこり。
「え! ホントですか?」
「あ~、よかったね~! もう目が覚めないかと思ったよ~!」
最後の方は、勝手に涙が出てきてしまいました。
すると、おナカさんも私の涙につられたのか、顔をしかめて泣き出しました。
といっても、声を出してワーワー泣くほどのエネルギーはありません。
医師から、「肝性脳症」(肝臓の機能低下による意識障害)であることを告げられました。
さて、目覚めたものの意識はボーっとした感じで食欲はまったくなく、口の中も白くカビが生えたようであり、唇もボロ布が剥がれかけているように皮が剥けています。
治療は通常、口から薬を飲用するのだそうですが、このような状態では水を飲むことさえ困難。
主治医から一つの提案が出されました。胃管(口または鼻から胃に挿入する細い管)を装着し、薬を液体にして流し込むという方法です。
「これしかないと思うんです」
栄養素の補給などのために使うと延命になってしまい、たとえ植物人間になっても何人たりとも外すことができないのだという説明を以前聞きました。胃管を外すことは命を終わらせることになってしまうからです。
「胃管ですかぁ……ん~」(そりゃイカン…)
私の反応を見て、
「栄養の補給ではなく、あくまで薬の注入として使います。あと腸を動かすために、300カロリー分くらいの栄養は入れますけど」
と医師が言うので、お任せしますと了解しました。
その10分後には装着。
そして胃管が入ってから4日間、またおナカさんは眠り続けました。
呼びかけるとたまに薄く目を開けるような感じはありますが、ほぼ眠った状態です。
再び心配の日々が続きました。
胃管の装着は期間を決めて、1週間から10日と聞いていましたが、5日目の水曜日に病室を訪れてカーテンを開けると、なんだかポケンとした表情の母が子どものような顔でこちらを見ています。
えっ?!
「オカーサン、胃管取れたの?」
「うん♪」
堤先生からの報告では、自分で胃管を取ってしまったそうです。
「その後本人と話しましたが、もう(胃管を)入れたくないというので、やりません」
と告げられ、私の中には不安が広がりました。
「それでも本人はすっきりした顔をしてるんですよね。なぜかアルカリ性と酸性のバランスが良くて、これがなぜなのか分かりません」
肝性脳症でこの状態になると、意識が戻らない人が多いらしい。
けれど、蘇りました。
思えば、20年前の蜘蛛膜下出血のときも「助からないので覚悟してください」と医師に告げられ、親族が病院に集結したと聞きます。
“聞きます”というのは、この時、親不孝者の私はスコットランドなどにいましてね、この事態を知らなかったのです。
父も父です、たまたま国際電話で家に電話をした私に嘘をついて、このことを知らせなかったのですよ。
知らせたってしょうがないだろ、という気持ちだったようです。
そしてかれこれ38年ほど前に左ひざを粉砕骨折したときにも、
「もう一生車椅子です」
と告げられたのですが、ほぼ普通に歩けるようになり、リハビリも兼ねて社交ダンスの教室に通ったり、朝晩はクックの散歩をするほどになったのです。そういうおナカさんを誰もが
「護られているのよ」
などと言います。
誰に(何に)護られているのかって? 祖母だったり、今回は父(守クン)だったり、でしょうか……?
けれど(腹水が溜まって)カエルのように膨れた腹を見たり、手や足そして顔や唇までもがゾンビのように皮がボロボロと向けた母の姿を見ている私は、今回はダメなんじゃないかと…さすがに打ちひしがれていました。
ところが、目を開けている!
すぐに弟はじめ叔父や叔母、知人友人たちにメールで知らせました。
「母が長い眠りから目覚めました!」
しかし、その後医師からの説明を聞いて再び落ち込みます。
今回は目を開けたけど、今度意識が落ちたらもうダメだと思う、というのです。そして、いつその時がくるか分からないし、いつ来てもおかしくないと。
この先、一生寝たきりになりますと言われたのは前回での説明。
その時も期せずして涙が流れ出てしまいましたが、今回も知らぬうちに流れてきました。
この先、転院か自宅に連れて帰るか、の選択を迫られました。
「こんなに家に帰りたがっているので、家に連れて行ってあげた方がいいんじゃないかと思います。クックも傍にいるし。家に連れて帰るなら、今が最期のチャンスになると思います」
「連れて帰ったとしたら(母の命は)どのくらいですか?」
「2-3日から一週間…」
「・・・・・・」
医師という職業柄、最悪のケースに備えるのでもっと長く生きられるかもしれない、とおまけのように付け足されました。
5月21日のおナカさんの入院から、一生分の涙を流してきたように思えます。
母が私の物を次々となくして、
「オカーサンが来る前は平和だった!」
と吐き出した言葉。
「死んでお詫びをするから!」
と返した母の言葉。
これらが何度も何度も思い返されました。
死んでお詫びにならないからね!
心の中で怒りや侘びや後悔や願いといった感情がごちゃ混ぜになりながら、焼けビールを飲んでは泣き、泣いては飲み、あげくに頭が痛くなり、鼻がつまって息ができなくなって少し感情がトーンダウンする、を繰り返しました。
そういう中で、心の慰めになったのはクックです。
彼女も皮膚病や左目右目また左目と角膜を患い、その都度動物病院に駆けつけました。
おナカさんとクックのダブル介護は、ただただ夢中。
でも会社から帰宅するとしっぽを振って飛び回る姿や、夜ベッドに寝ているときに私の足に伝わるぬくもりや振動は、共にこの環境を乗り越えようとしている者同士という感じがして、存在してくれているだけで救われた気持ちになったものです。
さて、転院か在宅介護か。
意識があるうちに家に連れて行ってあげたいという気持ちは強くありましたが、一週間の命を覚悟して連れて帰る勇気はありませんでした。目の前で死なれることを想像するだけで堪らなくなります。
叔父や叔母や弟、知人友人の何人かに相談しました。
転院に賛成されると、少しホッとしている自分がいました。そして同時に、あんなに家に帰りたがっているのに…という罪悪感のような気持ちの間を行きつ戻りつ。 そしてまた飲んだくれるのです…
結果、よこすか浦賀病院に転院する方向で進めてもらうことにしました。
さて転院まであとどのくらい共済病院にいられるのか分かりませんが、その間少しでも母の容態が良好に向かうよう考えねばなりません。なんせ次は療養病棟に移るのですから。
ええ、療養病棟では一般病棟のような治療をしてもらえないと聞きましたので……
8月6日、うみかぜ公園で花火大会がありました。
おナカさんの病室は特等席。
私は夜、クックと病院に駆けつけました。(とはいってもクックは車の中で待っていましたが)
看護師さんがベッドを窓に向けてくれたり、写真を撮ってくれたり。
目の前に大きく咲く大輪の花火を見ながら、呪文のように何度も自分に言い聞かせました。
きっと快方へ向かう前兆だ……
長くなってしまったけど、いつものポチッをお願いね!d(´ー`;)
→→→人気ブログランキング
]]>
余談ですが……
http://anrianan.exblog.jp/23652213/
2016-11-26T17:04:00+09:00
2016-11-27T08:04:47+09:00
2016-11-26T17:04:45+09:00
anrianan
■とりあえず日記
これは付き添いの看護師さんが撮ってくれたベストショットです。
ちなみに、この看護師さんは芸能界にいてもおかしくないほどきれいでかわいい女性。
今回ご本人の承諾をとっていないので、写真を載せることができません。 残念!
話は逸れますが、横須賀共済病院の8階の看護師さんはきれいな人が多い! そのことに入院当初驚きました。
さらに、きれいな上に優しい。一般的には外見がいいと性格が悪いとか、外見が悪いと愛嬌があるといわれますが、あそこはどうも例外です。
話は戻って、
七夕が近かったので、病棟の入り口には大きな七夕飾りがありました。
毎日祈りをこめて面会に通ったものです。
「お母さんがもうすぐ来るよ」
とクックに言うと、ジッと入り口を見続けていました。
「ほら! お母さんが来たよっ!」
そういわれても、ストレッチャーに寝ている母を認めることができません。
主治医自ら付き添って来てくれました。
そして、実はこの先生も犬好きだということが判明。
クックがおとなしく抱かれています。(男性には吠えることが多いのですが)
クックに会いたい、と言い続けていたおナカさん。
ほんの15分~20分ほどの再会でしたが、この後とても元気になりました。
そしてこの後、7月10日に下血して意識を失うという経過をたどるのです。
まだまだ続き……応援のポチッをお願いね!d(´ー`;)
→→→人気ブログランキング
]]>
敗血症
http://anrianan.exblog.jp/23647781/
2016-11-24T06:51:00+09:00
2016-11-25T12:30:24+09:00
2016-11-24T12:51:06+09:00
anrianan
■とりあえず日記
後になって担当医から知らされたことですが、この夜、母は助からないと思われていたそうです。
それほどに、採血の結果が近年稀に見る酷さであったと。
そのことを当時は知らない私でしたが、毎日おナカさんの顔を見に行こう、ということだけは強く決意していました。
翌22日病室に行くと、私の顔を見るなりおナカさんは泣き出しました。
心配かけて悪いという気持ちと、私の顔を見て安心したという気持ちからだったようです。
そういう取り乱した姿を見たことがなかったので、それだけでも容体がただならないものであるように感じました。
四人部屋で廊下から入ったすぐ左側。
おナカさんの両手には大きなミトンがつけられ、両手首はベッドの枠に固定されていました。ベッドの周囲にカーテンが引かれ、この僅かな空間で、太陽の光も空を眺めることなく24時間を繰り返すのかと思うと、それだけで息苦しく感じました。
尿カテーテルが装着されており、心電図や心拍数を計測するためのコードが体のあちこちに貼りついています。
その他にも、こんなものがぶら下がっていたり、
これは栄養剤かな・・・・・・?
こんなものもありました。
何がどういう薬なのかまったく知識がないので、とにかく毎日写真を撮ることで記録に残そうと思っていました。
輸血までされているっ・・・・・・(と、うろたえる私)
担当医は、救急車で運ばれてきた時に救急外来の担当だった堤先生。専門は血液内科です。
病名は「敗血症」。 (※sepsis--感染に対する制御不能な生体反応に起因する生命を脅かすような臓器障害のこと--wikipediaより)
「血液の中に、ばい菌がいーっぱいいるので抗生物質でやっつけていきます」
との説明を受け、
「何が原因ですか?」
と尋ねると、
「まだ原因ははっきりしていませんが、とにかく体中にばい菌がいっぱいいるので減らすことが先です。 原因よりも結果オーライというところもあるので」
ふむ・・・確かに、結果がよければ全てよしだな。
その後、中心静脈カテーテルというものを右足の付け根に装着しましたが、衛生上を考えて右の首に付け替えると告げられ、しばらくすると今度は左側に付け替えられました。このカテーテルというものは、点滴よりも効率よく薬を体内に注入していけるのだそうです。
さすが現代医学は素晴らしい!
というほどに、まもなくおナカさんの状態が落ち着き、朦朧としていた意識もしっかりとしてきました。
ベッドの背を少し上げるだけで「痛い、痛い!」と言っていた原因が突き止められ、痛みが消えました。
28年ほど前に左ひざ粉砕骨折をしているのですが、その左ひざに膿が溜まり、その膿が腰や背中に回っていたそうです。
担当医が何気なく膝を触ったときに、やけに柔らかいと思ったそうで、整形外科の先生に頼んでエコーで見たら膿が溜まっており、菌の温床になっていたのだと説明してくれました。
入院直前の整形外科医院で、少し触るだけでも痛がるおナカさんを3人がかりでレントゲン台に乗せて膝の写真も撮ったけれど、膿までは写らないということですね。その時、触診をしたかどうか記憶にありませんが、今回に関しては、整形外科は大失敗でした。
ちょうど私が病室を訪れているときに先生がいらしたことを覚えています。
「原因がわかりましたよ!」
と教えてくれました。その時のおナカさんは、失っていた生きる気力を一気に取り戻したように
「あぁ・・・・・・! ありがとうございます!」
泣きそうになっていました。
翌日には膝にチューブが入っており、膿はほとんど出なくなっていたように記憶します。
背中や腰の痛みがなくなると、相変わらず認知症なのか天然ボケなのか分からないトンチンカンなナカコ節も復活し、ほんとに安堵しました。
7月3日には、幼少のころずっと一緒だった4人の幼なじみが、遠くからお見舞いにきてくれました。
「あっ!」
うれしさのあまり半泣きになっているおナカさんの目の前に、4人のお友だちが次々と現れます。
他にも時間を作って足を運んでくださった方々、何度も会いに来てくださった方、多くの励ましをいただきました。
お陰でこんな元気に。
「オカーサン、なんかポーズ作って!」
「よーっ!」 …ダチョウクラブか???(^_^;)
7月10日には、
「天ぷら蕎麦が食べたい」
というので、近くの手打ちそば屋でテイクアウトをお願いし、病室まで走って持っていきました。
手指の動きが悪くなっており、箸はにぎり箸。ソバを口に入れますが、口の端からソバがぶら下がっているような、とても見られた姿じゃありませんでしたが、それでも食べられるようになったことに誰もが大喜びでした。
その時、ソバを3分の2ほど平らげ、小さなカボチャの天ぷらを食べ、
「あ~、おいしいっ! ずーっとソバが食べたい、ソバが食べたいっと思ってたんだぁ!」
「持つべきものは娘だね」
「うんっ♪」
入院して6週間、日に日に良くなっていくようで、毎日見舞いに通った甲斐があったと喜びを感じていました。
ところが、その夜。
下血があり、マットに染みるほどベッドが真っ赤に染まったのだと告げられました。
一気に奈落の底に突き落とされた気分です。
ちょうど日曜日で、1時からの面会時間に合わせて行った時でした。
病室の前まで行くと、なにやら慌ただしく看護師さんたちが動き回っています。 そして、看護師さんの一人が
「これから個室に移動します」
「え? どうしたんですか?」
「先生からお話があると思います」
えぇーーーーっ! ぞっとする怖さを感じながら、おナカさんのところに行くと、
「菌が増えたんだってぇ・・・」
私に助けを求めるような目で、泣き出さんばかり。
とっさに、大丈夫! 大丈夫だから! 私も一緒にいるから! ちゃんと先生に聞くから大丈夫だよ!
そう言いながら個室に運ばれるおナカさんに付き添い、その後、担当医が出張中とのことで代わりの先生が説明にやってきました。
昨夜の下血は、腸が破れたものなのかどうか調べること。
もし腸が破れていたら、輸血してもしょうがないので輸血をしないこと。
今は血圧が正常だけど、もし下がった場合、心臓にも影響があること。・・・・・・・止まるかもしれないこと。
何も考えられず、とにかく今夜おナカさんに付き添うため、一度家に帰って出直してくることにしました。
お母さんが死ぬ?
実感が湧かないのに後から後から涙が流れ落ちてきます。
どうしたらいいのだろう・・・頭の中で考えが何も浮かばず、ただひたすら
「絶対に死んだらいやだ! 絶対に死なせない!」
天の神さまに挑戦状を叩きつけるような、憤りと執念が地の底から湧き上がってくるようでした。
なるべくクックと一緒にいるようにしていた私は、この時もクックを車に乗せていました。
この時の別名「エリザベス・クック」。首に付けている水色のものはエリザベスカラーと呼ばれるもので、治療中の箇所を噛んだり引っ掻いたりしないために付けます。
クックもストレスを感じていたのでしょうか。 次々と皮膚にトラブルを抱え、一番ひどかったのはコレです。
血だらけになっている姿を見た時には、母の危篤を知らされたと同じくらい動揺しました。
とにかく、母下血の夜、クックは車で一晩明かすことになります。
私はおナカさんに付き添いながら、夜中に2度ほどクックのようすを見に駐車場へ。
伏せて寝ているクックの姿にホッとしながら、再びおナカさんの傍らで祈る長い夜を過ごしました。
それから丸2日間昏睡状態のまま、時間だけが虚しく過ぎて行きました……
まさかの坂はまだ途中…今日も応援のポチッをお願いね!d(:_;)
→→→人気ブログランキング
]]>
おナカさん、入院する
http://anrianan.exblog.jp/23626405/
2016-11-21T17:57:00+09:00
2016-11-22T12:40:42+09:00
2016-11-19T07:32:01+09:00
anrianan
未分類
(※下の写真は4月7日、桜の下で)
前回の「散骨葬」で述べた通り、ぷかり埠頭の待合室で嘔吐した母は乗船できず、食事会にももちろん参加できず、両脇から抱きかかえられるようにして車に戻りました。座っていることも辛そうで、家に到着して車から降りるときにも嘔吐。
声がよく出て、よく歩いて、よく食べてよくしゃべっていたおナカさんのこんな姿を見るのは初めてでした。
知人のお医者さんに相談し、夜になって救急医療センターへ連れて行きました。
X線を撮り、点滴を2時間くらいかけてゆっくり行い、帰宅は午前零時。特に異常なしとのことでした。
真夜中によこすか海岸通りを走りながら、隣に座っているおナカさんを見ると、ちんまりと一回り小さくなったように感じました。
翌5月4日、再び高熱が出たので、もう一度救急医療センターへ。
しかし行う処置は、昨日と同じ点滴のみ。
最近、腸からの風邪が流行っているので、とのことでした。けれど、何もないのに高熱が出るというのは気になるなぁ・・・との医師のつぶやきに私も大きくうなづきました。
「共済病院へ紹介状を書きましょうか?」
と聞かれたので、
「共済病院へは肝臓の方で掛かっているので行ってみます」
と答えて帰ってきました。
5月5日の朝になると37℃台に下がりますが、昼ごろ再び39℃近くに。
ゴールデンウィークですし、共済病院の救急外来にどう手続きをしたらいいのか分からず、電話をしてみますが留守電。
すると、ちょうど遊びに来ていた友人が、共済の救急外来窓口に行ってみると言ってくれます。
40分ほど後、その友人から電話が来ました。
「電話をして留守電になっているけど、ずっとそのままでいるとつながるらしいから。すぐに電話してみて」
なんてことだ、留守電になっていたら誰だって通じないと切ってしまうじゃないか!
さてそれから、電話をかけて救急外来窓口に来るように言われたので、母を車に乗せて行きました。
歩くのも辛そうになっていたので、車を降りると移動はすべて車椅子。
ピンクのロングガウンに包まれた母は疲れたようでしたが、採血、レントゲン、そして尿検査のときは自分の足でトイレで用を足すことができました。
結果は、特に入院するような緊急性はありません、とのこと。
たまたまその時は熱が下がっており、おナカさんはニコニコしながらお医者さんと何やらふにゃふにゃおしゃべりをしていたので、私も安心しました。
ところが、翌日また高熱。
そんな状態が、6日から11日まで繰り返されました。
(※5月10日)
でもあれだけ検査してもらって内科では特に異常がないというのだから、あとは腰痛の方か・・・・・
と思った私は、整形外科に母を連れて行くことにしました。11日のことです。
人から聞いたりネットで調べて、家から割合近くにある●島整形外科へ行きましたが、ここは非常に混んでいます。
評判がいいから仕方ないと思うのですが、車椅子に乗せて待合室で待っているおナカさんを見ると、とても辛そうでした。
ようやく順番が来て、お決まりの採血、レントゲンなどを行い、ついでに骨密度も調べて見ましょう、などと言われて調べて見れば、若い人の51%ほどで骨がスカスカだといいます。
「骨密度の薬と痛み止めをあげますからね、あとはリハビリに通ってがんばりましょう」
と医者に優しく言われ、おナカさんも、はい、がんばります! などと久しぶりに元気が出ていました。
「ああ、今日はホントーに来てよかったぁ~。 リハビリがんばるから。い~ま、見ててごらん!」
ああ、よかった。 ここなら、いずれおナカさん一人でも車でリハビリに通うことができそうです。
その後も微熱はありましたが、本人はたまに起きて、日常生活を営むことはできました。
(※5月13日 ちょっとやつれたようではありますが)
状況が急変したのは、10日後の5月21日でした。
その日は弟と友人が訪れることになっていました。
その前に、採血の結果が出たというので受診して聞いておいた方がよいと思い、私は朝7時半に家を飛び出し、母の診察券を出しに。
医院につくと、すでに7人の人が並んでいるじゃないかぁ!
8時15分から診察券を受け付け、9時におナカさんを連れて再び●島整形外科へ行くだけです。
ところが、おナカさんはベッドから起き上がることができません。
両足の付け根をさすりながら、腰も背中も触るだけで
「痛い! 痛い!」
時間が迫っている私は焦って、叱りながら
「どうするのっ! 行かないのっ?!」
「行くよ・・・・ 痛いっ! ・・・・・・そんな言い方しなくたって・・・自分で起きるよ、待ってな・・・」
「早く起きて! 間に合わなくなる!」
今から思えば、本当に可愛そうなことをしました。
全身激痛だったろうと知るのは、もっとずっと後になってからのことです。
車に乗せて行きましたが、突然、母のろれつが回らなくなっていることに気づきます。
そして目の視点も定まらないようでボーっとしています。
どーしちゃったんだろう・・・・・。
何やら得体の知れない不安に襲われ、とんでもないことが起こっているような気がしました。
医者の診断によると、腰の痛みは長く寝ていたことによる圧迫骨折。 とはいっても、レントゲンでは骨が折れているようには見えませんでした。背骨の間が狭くなっていたり、くっついていたりすることは分かりました。
また、脳神経外科に行くことも勧められましたが、一番驚いたことは、
「これは内臓がボロボロだな、これじゃ薬はあげられません。内臓に影響が大きすぎますから・・・」
ジョーダンじゃないよ!
採血したのは10日前だよ?! その10日前の採血結果を見ながら、内臓がぼろぼろだから薬は服用できませんだって? じゃ、薬を飲んでいたこの10日間はどうなるのさっ!
採血したらすぐに結果を出して、薬を処方するんじゃないの?!
おナカさんは帰りの車の中、う~う~とうめきっぱなしでした。
「オカーサン、ずっと唸っているね」
と言うと、
「痛くて唸らずにはいられない・・・・」
「そんなに痛いの?」
私はまだしっかりと事の重大さを認識していませんでした・・・・・・
おナカさんがこんな状態でしたが、午後から予定通り、弟と友人と三人でバーベキューをやることに。
弟が母に食べさせる肉を買ってきたということもあって決行したのですが、おナカさんは外のテラスに出ないというので窓際の椅子に座ることに。
ふとおナカさんを見ると、顔をテーブルに伏せています。 弟が、
「あれ? 漏らしてるんじゃないの?」
え? と思って母の足下をみると、廊下が濡れています。
途端、何か大変な事態が起きていることを感じながら雑巾で拭き取り、下着とズボンを替えさせるのですが、その間中おナカさんは、
「大丈夫・・・・・・大丈夫・・・・・・」
と、うわ言のように言い続け、私は訳も分からず涙が止まらなくなりました。
とっさにクック! クック! と呼ぶと、クックが母のベッドに飛び乗って、母の顔を覗き込んでいました。
「救急車を呼ぶよ?」
と言うと、大丈夫大丈夫と繰り返しましたが、
「オカーサンが死んだら、私とクックは生きていけないよっ!」
泣きながら叫ぶと、おナカさんは閉じていた目を開いて私をジッと見つめ、首をコクンと縦に振りました。
それからのことは、今となっては夢の中のことのようです。
弟が救急車を誘導するため道路に出てゆき、私は急いで万一の入院に備えて母のパジャマや財布などを大きなバックに入れて一緒に救急車に乗り込みました。閉まる扉の向こうに、友人にリードを引かれたクックが、凝然と立ち尽くすようにこちらを見ている姿が今でも目に焼きついています。
4時半ごろ救急車で運ばれ、夜10時半ごろ検査が終わって呼ばれました。
「今日は入院です。 どーしてこうなっちゃったんですか?」
どーしてって、こっちが聞きたいわ! と内心私は驚きとともに腹が立っていました。
仕事に行っている間、クックをどうしたらいいんだろう・・・・・・どのくらい入院するんだろう・・・・・・どのくらい悪いんだろう・・・・・・
とめどなくさまざまな不安と心配が頭を駆け巡り、同時にしょーがないという諦めもあり、ガラガラとストレッチャーで運ばれていくおナカさんに
「入院だって」
と告げると、えーっ! きょとんとした顔で私を見ていました。
とにかくどうにもならない疲労感でいっぱいの私は、病棟で書き込む書類にもげっそりしてしまい、
「もう今日は書けないので、明日でいいですか?」
とつっけんどんに尋ねると、浅田真央ちゃんがあられちゃん風メガネをかけたようなかわいい看護師さんは、
「あ、じゃ、ちょっとここだけ書いてもらってもいいですか?」
なんともさり気なく、必要な手続きだけは淡々と進めようと試みる姿勢に、なんだろう・・・プロフェッショナルというか、優しさというか、彼女の人間力を感じ、ふと私の気も緩みました。 悪かったな・・・・・・
心がちょっと落ち着ついてすべてを書き込み終わると、彼女に母の今日に至った経過を簡単に話しておきたくなりました。
「毎朝毎晩犬の散歩をして、社交ダンスにも週2回通って元気だった母が、なぜこんなことになったのか・・・」
と漏らしたとたん、涙もこぼれてきました。
彼女の優しい瞳を見つめながら、母を託してみよう・・・・・・と思ったのです。
5月21日午後11時半に救急外来の出口から出て、私の長い長い一日が終わりました。
でもある意味で、長い長い闘いの始まりでもありました・・・・・・
おナカさんが元気になるように、応援のポチッをお願いね!d(´ー`)
→→→人気ブログランキング
]]>
散骨葬
http://anrianan.exblog.jp/23621280/
2016-11-17T11:17:00+09:00
2016-11-17T16:03:24+09:00
2016-11-16T20:23:46+09:00
anrianan
■とりあえず日記
父が亡くなったのは平成14年10月7日です。
それから早2年、遺骨を海に撒いてくれとの父の遺言に従いました。
なに、49日を過ぎても遺骨を置いておいたの?
そうです、遺影の傍らに置いておきました。
ええ、気持ち悪くなかったですよ、父の骨ですから。
いろいろ手続きで疲れてしまった私は、今年の10月7日に行えばいいかなと思っていました。
ところが、4月に入っておナカさんが盛んに私をせっついたのです。
「やっぱり、お父さんの誕生日に(散骨葬を)しようよ」
と。 もう、うるさいなぁ……。
急遽、業者を調べ始めて何社かに問い合わせました。
そして、父が船乗りになりたかったこと、横浜で生まれ育ったことなどから、横浜のぷかり桟橋から出港する船にしました。下船後は、インターコンチネンタルホテルに入っているレストランで食事会、というコースです。お土産にパウンドケーキを焼いて、父の人生を写真と文章で綴ったパンフレットを作成して、参加者に持ち帰っていただきました。
値段はピンキリです。
40万かかるというところもあれば、15万というところもある。
参加人数によって船の大きさも異なるので、それによって値段も変わります。
選択基準としては、値段が安く良心的そうな業者さん。
何を基準に選んだらよいのか分かりませんでしたけど、結局……勘でした。
結果、大正解でしたよ。(ここ→ 墓地ナビ)
4月25日月曜日、2人の男性が家まで来て、厳かな雰囲気の中、丁寧に父の骨を粉砕してくれました。
オプション費用として5000円かかりますが、これは出張してきてくれることや手間暇を考えると、とても安く感じました。
右側の若い青年は見習いで、今回初の粉骨作業とのこと。
額に汗しながら、まさに粉骨砕身。
懸命に作業する姿は純粋そのもの。彼らの姿を見ていて、父もきっと満足してくれているだろうと胸が熱くなりました。
火葬後骨ツボに入れる際、骨の量が多いので5-6回ほど潰されながらやっと入った父の骨。
粉砕する彼らにとっても、通常よりも重労働だったようです。(※下の写真は粉骨前です)
機械で粉砕すると、ほんとに細かい粉になるのだそうです。
けれど手作業の場合、
「少々粗くなります」
と言われて覗けば、なるほど……、父が挽いていたそば粉のようだ。
父そのものじゃないか……
そして当日。
下の写真は船の中です。両親と一緒に暮らしてきたクックも乗船させてくれました。
ぷかり桟橋を歩く時と下乗船の際は、私が抱っこしていくことが条件でしたけど。
写真では、私一人が粉骨を海に撒いているように見えますが、弟と二人で同時に流しました。
その後、持参した花を海に流します。
前日、おナカさんと二人でわざわざ金沢文庫の花屋さんまで行き、選んできた花々です。
そして、小さな鐘がテーブルに置かれ、一人一回ずつカーン! と鳴らして合掌します。
一通りの行程が済むと、もう一度、船は骨を沈めた場所をぐるりと旋回してくれました。
最後に、散骨をした緯度と経度が書かれた証明書をいただきます。
「本当はもっと沖に出て行きたかったんですけど……」
その日はなかなかの強風で出港できるかと心配していました。
「大丈夫です、父なら簡単に自力で出て行けますから」
そう言って父の人生を思い返し、船が湾内をぐるりと回って港に帰ってくる間、涙がとめどなく流れ落ちて止めることができませんでした。
独学と中国語学校に通いながらコツコツと勉強を続け、退職後は西安への留学を果たし、通訳の資格まで取得した父。
毎朝、太極拳をやっていた父。
野菜作りを続けながら、広大な土地での農業を諦めきれず、岩手に8000坪の土地を買ってしまった父。
毎年雪が降ると、得意げにブルドーザーを操作していた父。
怖かった父、厳しかった父、頼りになった父。
今でもじっくり思い出すと涙が止まらなくなるので、なるべく思い出さないようにしています。
そんな父が、今でもおナカさんの前にはちょこちょこ現れるらしいのです。
そして、
「オレは、おまえを本当~に好きだったんだ」
と死んでから告白したらしいのです。
ほんとかねぇ……
おナカさんの夢の話にしろ幻想にしろ、笑っちゃうけどちょっといい話に思えます。
そのおナカさん、
実はこの日、起きた時から気持ちが悪い、腰が痛いと訴え、船の待合室にいる間に嘔吐。
結局、船に乗れずに帰ってきました。 そして、家でも再び嘔吐。
そうです、この夜から想像もしなかった日々が始まったのです……
なに?なに?続きが楽しみ!という方、応援のポチッをお願いね!d(´ー`)
↓ ↓ ↓
人気ブログランキング
]]>
465日
http://anrianan.exblog.jp/23618624/
2016-11-15T05:28:00+09:00
2016-11-15T17:02:08+09:00
2016-11-15T15:03:09+09:00
anrianan
■とりあえず日記
2015年08月10日(10:56更新)から、なんと1年3カ月と5日が経ちました。
なぜに更新を怠っていたのか……
それは、更新がめんどーくさくなってしまったからというよりも、舞い戻ってきたおナカさんと格闘の日々が続いたからなのでありました。
いえいえ、格闘ったって別に相撲のようにガッツリ取り組んだわけではありませんのよ。
引っ越し荷物でごった返した部屋を、ブルトーザーナカコがせっせせっせと片づけ、
「とりあえずココに置いておこう」
と思って置いた私の大切な宝の数々が、ことごとく行方不明になっていったのです。
私としても15年間独り暮らしを続けてきた中で少しずつ自分のライフスタイルを完成させ、おナカさんの出戻りが決まるとともに苦手な断捨離を進め、
「これは残したいっ!」
というものだけを捨てずにおいた、それはそれは思い入れのある物ばかりなのです。
例えば、
クックがモデルになって掲載された新聞とか、
私の描いたイラストが掲載された新聞とか、
毎年咲いた百合や四つ葉のクローバーの球根とか、
20年くらい前にアメリカの友人からもらったクマのゆいぐるみとか、
結核が治ってから初めていった鎌倉で買った白ウサギのぬいぐるみとか、
まだまだ思い出せば出てくる遺失物の数々ですが、これが「あった場所にない!」と気づいた時には、時すでに遅し。
母の記憶からも消えておるのですわ。
物はどんどん捨てろ、が主流の近年ではありますけどね、
私はその「物」を見るたびに、その時の情景やら心情やらを思い出すから、なかなか捨てられないのですよ。
だもんで、
「オカーサンが来る前は、平和だったっ!」
なんて、本当は言いたくなかった言葉をむりやり吐き出すように投げつけたこともあったりして・・・。 すると、
「お母さんも出て行くところを考えるから!」
と返して、その後何日かお互いに口を利かず、心ふさぐような日々を送ったことを覚えています。
でも何日かすると、なんとなくお互いに歩み寄ってまた話をするようになるのですが、私の記憶するところでは2月にまたぞろ母と大げんかをしましてね。
「ほんとにごめんねっ、お母さん、死んでお詫びをする!」
なんて言うのですよ。 なによ、それ……
「そんな気持ち悪いこと、言わないでよっ! これでオカーサンが死んだら、私は罪悪感がずっと残るでしょっ!」
体の毛穴が開くような恐怖と気味悪さを感じて、猛烈に怒りながら言い返しました。
なんでしょう……
よく虫の予感といいますけど、人間ってやっぱり何かを予知するのでしょうか……
そういう出来事が起こりました。
それも今年(平成28年)5月3日、父の散骨葬の日です。
続きは長くなるので、次の更新に書くことにします。
なにしろ1年3カ月と5日ぶりの更新ですから。
日数にすると465日。(注:計算違いしてるかも)
これが長いのか短いのか。
もう3年くらい経ったように感じる今日このごろです・・・・・・
この再開記を読んでくださった方、励ましに応援のポチッとお願いね!d(´ー`)
↓ ↓ ↓
人気ブログランキング
]]>
普通の梅干しとカリカリ梅-2015年度版
http://anrianan.exblog.jp/22010471/
2015-08-10T10:56:11+09:00
2015-08-10T10:56:13+09:00
2015-08-10T10:56:13+09:00
anrianan
■食生活
ところが、この「ちゃっちゃっと」済ませたことが失敗。
梅が、柔らかくなってない、ではないかぁ~!(:_;)
梅雨明けで、さらに3日間家にいられる今週末、やっと天日干しだと楽しみに楽しみにしていたのに……
この内蓋を開けて、ザルに並べ始めた数個でガッカリした……!
梅の実一粒一粒にも個性(?)があるから、赤シソの染まり具合や多少の柔らかさの違いは仕方がない。
と思っている私であるが、今年は全体的に固めじゃないか。……なにがいけなかったんだ?
最初に思いつくのは、重石の重量が足りなかったこと。……でも、これは毎年の課題なのだ……というより、重石を買うか見つけるかして用意すればいいじゃないか。次までに1年もあるんだから……という反省を、一体何年繰り返してきたんだ、アタシは! (あほぉー!)↓ 5/27の図
(注:これはゴミの山ではありません。重石になりそうなありったけの物を積んだのです)
しかし考えてみれば、毎年重さが足りなかったのに、昨年の梅は柔らかく漬かったんだから、決して重石のせいばかりとは言えないなあ…… あっ! そうかあ! ……少し、追熟してから塩漬けにすればよかったんだぁ。 ↓ 下は、収穫した5/23の図
追熟というのは、実を収穫してから数日置くことをいう。(実が熟して柔らかくなってくるんだね)
そうだ、そういえば、昨年は一度に塩漬けするには容器が足りなくて、3-4日(かそれ以上)置いた実が多かった……思い出したゾ……だから、梅の実が黄緑色になったものが多かったんだ。
ああ……! なんたる失態! たった一年前のことが、忘却のかなたに消えていた!
しかも、今年もやっぱり天日干しするためのザルが「あと2つあればいいのに……」という理由で、もう一つの樽は、まだ塩漬けのままの梅たちがいる。当然、こちらの梅たちもほとんどが固め……トホホ
そうそう、固めの梅干しといえば、今年は「かりかり梅」も作ってみた。
失敗すると悲しいので、少しだけ作ったら、こちらは意外にもおいしくできた。
このかりかり梅は、すぐにできる。
①ヘタを取ってよく洗ったら、一晩たっぷりの水につけてアクを抜く
②水気をよく拭き取った梅を焼酎でもみ込んで、梅の量の倍の重石を乗せて2日間置く。
※1日1回はかき混ぜて、上下を入れ替えてね。
③アク抜きして白梅酢と合わせた赤シソを、梅と合わせてもみ込んだら冷蔵庫へ。
こちらは約1か月で食べられるので、案外早くて簡単。
上の写真2枚は、赤シソと合わせた5月30日。
このかりかり梅こそ、収穫直後の真っ青な時に作れば、もぉーっとカリカリしたに違いない。
とはいえ、こちらは刻んで梅おむすびを作るときなどに活用しているので、来年はもっとたくさん作ってみよう! なんて密かに企んでいる。
とまぁ、いつもながら反省の記録になってしまったが、また来年は新たな気持ちで挑戦しようではないか!
と、失敗をお恐れぬアタシは(?)懲りずに思うのであった……
今年の失敗を覚えていますように…… と願うあちきに応援のポチッをお願いね!d(´ー`;)
↓ ↓ ↓
人気ブログランキング
]]>
鴨居八幡神社の夏祭り
http://anrianan.exblog.jp/21997003/
2015-08-05T11:22:00+09:00
2015-08-06T07:06:13+09:00
2015-08-04T06:12:19+09:00
anrianan
■伝統と文化
子どものころは太鼓の音に誘われて、待ちきれないといった気持ちで山を駆け下りて行ったものですが、気づいたらすっかり足が遠のいていました。
今年は母が戻ってきたこともあり、久しぶりに行ってみることに。
鴨居八幡神社の神様は誉田別尊(ほんだわけのみこと)と素盞嗚尊(すさのおのみこと)、二つの神様が合祀されているそうです。
もともと鴨居は漁村だったので、お祭りではその名残をあちこちに垣間見ることができます。
私は小学1年生の3学期に転校してきたので、お祭りの時に地元の子たちがイキイキとしている姿が、とてもうらやましく感じたものです。今でも覚えているのは、同じクラスの子とお祭りで会ったことがうれしくて、明日も来る? と聞いたら「来る」というので、翌日曜日は朝から、走って神社に行ったことです。その子と会えませんでしたが…。
夏祭りは、そんな幼いころの思い出とともに、懐かしい人々に再会する場所でもあります。
特に、17年ぶりに帰ってきた母は今、親しかった友だちや街並みと出会う日々を楽しんでおり、このお祭りでも、ずっと会いたいと願っていた友だちと再会。
年月が過ぎ去ったことをつくづく感じる二人の後ろ姿……
子どものころから知っているオバサンたちにとっては、子どもたちがオバサンやオジサンになっていることが驚きらしく
「あらぁ~、大きくなっちゃってぇ~!」
なんて嬉しそうに言うわけですね。 ええ、もう立派な中高年ですのよ……
実は、ずっと会いたかったこのお友だちは、もうすぐ東北の施設に行ってしまうと知り、少し離れたところで母は目を潤ませていました。長年住み慣れた土地を離れる切なさや寂しさ、介護する側の気持ち、される側の気持ち……さまざまなことを考えると「涙が出てきちゃってしょーがないよ…」と。
さて、心がうるうるするような一日目から夜が明けて、お祭りの2日目。
この日は、メインイベントである「お浜降り」があります。神社のお神輿と各町内会のお神輿が勢ぞろいして海に入るのです。
ということは知っていましたが、なんと私、7歳の時にこの地に移り住んでから、一度も見たことがないことに今回気づきました。今年は愚弟が町内会の神輿を担ぐというので「じゃ、見てやるか」ということに。
神社の目の前は、道路を挟んで浜が広がっています。その浜に、大きな竹で斎庭(ゆにわ)が作られていました。夕刻から始まる「お浜降り」を、皆待ちわびています。
写真では、人がそれほど多くないように見えますが、角度を変えるとすでに多くの人、人、人…。
ほらね、……とはいっても、まだまだこの時は少ない。この後、どんどん人が増えてきました。
はい、白いワンコはクックです。その傍らに立っているのはおナカさん。
日が西に傾いたころ、大太鼓が「ドーン! ドーン! ドーン!…」となり始めました。大鳥居から、大きな榊の木や祭祀を行う宮司さんらが登場。浜はしんと静まり、その間、祝詞が奏上されているだろうことは、遠くの私にも分かりました。
さて、宮司さん方が退場し、斎庭が取り外されると、笛や太鼓が激しく鳴り始め、上下に大きく揺れるお神輿が出てきました。古い町順に出てくるそうで、まずは「宮原」。 おぉ! 褌がいるではないか! しびれるぅ~!
ここで、動画にトライ。
雰囲気はちょっと味わえるかな?……
次々と出てくるお神輿を見て「一体、何台の神輿が出て来るんだい?」。愚弟が担ぐ神輿は一番最後に出て来ると聞いていたので、それまでにみんな飽きちゃうんじゃないの? なんて心配になりました。
ところがどっこい、飽きるどころが益々盛り上がっていくではありませんか。
普段、町内会なんて無関心なのに、この時ばかりは「わが町内の神輿」なんて興奮している自分がおかしくなりました。
やっと「わが町内会の神輿」も登場。
結局、11の神輿(10町内+神社のお神輿)が浜と海を何往復もしながら浜を練り歩きます。
神輿と観客が混然一体。浜全体が大きなエネルギーの渦になっています。
私はデジカメを構えながら、愚弟を探すも見当たらない…どこにいるんだぁ?……担ぐの、やめたのか?……(年だしねぇ…) あ、いたいたっ!…… むふふふ…
こちらが神社神輿です。担ぎ手が白衣を着てるんですねぇ。
いよいよクライマックス、ちょうど目の前に「わが町内の神輿」がやってきました。
いいね~、あたしゃ若かったら一緒に担ぎたかったよ…
目の前で、神輿が浜と海を行ったり来たりするのを見ながら、私は過ぎ去りし年月を噛みしめ、二度と戻れない時間という不可思議の中で、過去と現在を何往復もしていました。
太鼓や笛の音は鳴り続けますが、お神輿は何度も高く上げられて終了しました。 おつかれさま~!
神輿と人の渦の中で「大丈夫だろうか…」と心配していたおナカさんとクックも無事でした。
初めてのお浜降り、懐かしき人々との再会、そして別れ……忘れられない夏祭りになりそうです。
あの、7歳の夏祭りから何十年も経ち、変わらない風景と変わってしまう風景。どうすることもできないけれど、誰もが幸せで心豊かな人生を生き抜けますように……と、改めて願った2日間でした。
世界が平和で幸せでありますように… 願いを込めてポチッとお願いね!d(*´▽`*)
↓ ↓ ↓
人気ブログランキング
]]>
沖縄に初上陸!
http://anrianan.exblog.jp/21950775/
2015-07-22T19:45:00+09:00
2015-07-22T21:33:41+09:00
2015-07-15T15:29:38+09:00
anrianan
■とりあえず日記
すったもんだの日々が続いています。嫁と姑のバトルは当たり前のように語られますが、娘と母だって16年も離れて暮らしていれば、完全に家事の流儀は違っているもんで、遠慮がない分、そりゃあ神経擦り減らすほどのバトルが続き、ただただ疲れております……そして、悩んでおります……
とりあえずは、すでに2週間前の話になってしまいましたが、初沖縄の話です。
突然友だちに誘われて行ってきました。一泊だけど朝一の飛行機で羽田を発ち、2日間をめいっぱい使って遊びまくりました。美ら海水族館に行って、コンドミニアムに泊まり、目の前のプライベートビーチで泳ぎ、夕日を見ながら食事をして、波の音を聞きながらビールを飲み、ああ……沖縄に住んでもいいかも~! という人の気持ちがよ~く分かりました。
出発当日は、まだ梅雨の羽田空港でなんだか頭も気も重かったのですが……
朝6時半、翼のハートマークを見たときは、ちょっと楽しい旅になるような気がして気持ちもほわり。
飛行機のエンジンがかかり、機体がゴトゴトと音を立てて走り始めると、久しぶりの空の旅にドキドキしてきて、なんだか興奮している自分を感じました。機体がふわりと浮くと気分も急上昇! 思わず、やったー! と万歳をしたくなりました。…しませんでしたけどね。
そして大好きな雲を眺めながら到着した那覇空港には、自衛隊の飛行機がズラリ。
沖縄の基地問題や、敗戦後ずっと置かれてきた沖縄の立場を目の前に突きつけられたようで、言葉を失ったまま流れる光景に見入りました。……といいながら、初めに行なったことといえば、
塩ちんすこうブルーシーズアイスを食べること。空港を歩いている時に目にして以来の、まずは一つ目の目的を達成……
車をレンタルして、最初に訪れたのは道の駅「許田」。ここで美ら海水族館の割引券を購入。
この道の駅に立ち並ぶ小さな商店路地はなんとも言えない風情が溢れていました。異国情緒というのか、昭和初期の懐かしさというのか……ええ、昭和初期にはまだ生まれてませんでしたけど。
通りすがりの天ぷら屋で、全品50円という手書き札にひきつけられ「天ぷらを買って沖縄そばを食べよう!」と急遽ランチが決定しました。友人は、ソーキそば。
アタクシはトン(豚)が苦手なので、
アオサが入った沖縄そばです。メニューを見ると「ゴーヤドライ」とか「シークワァーサーなんとか」というビールがあり、おぉっ! と思ったのですが、友人が運転をしてくれているので私だけが飲むわけにはいきません。ま、そのうちどこぞで買って飲めばいいや、と思っていたのです……(これが失敗でした)
さて、腹ごしらえをしたので、あとは北に向かって突っ走り、美ら海水族館へ。
さすが74%の米軍基地が集まっている沖縄、米人がやたら目につきます。
横浜の金沢八景シーパラダイスというところにも水族館があります。以前訪れたことを思い出し、……あやや? 十何年も昔の話じゃありやせんか……!
大盛況でした。水族館って、どこもこんなに賑わっているのでしょうか。
天井がガラスになっているトンネルは、頭上を大きな魚が泳いで行き、こういう光景は大人になっても心が浮き立つもんですねぇ。
この後、ジュゴンを見たり、イルカのショーを見たり。
とにかく、暑いっ! 関東はまだ梅雨寒だというのに、暑いっ! ぎんぎんの日差しを浴びながら、美ら海水族館の出口に向かいました。歩道から出ている白い霧はミストです。さすが南国! 少しでも暑さを和らげようという工夫がされている! と妙に感動してしまいました。
さて、水族館を後にして、今宵は瀬底にあるコンドミニアムに泊まります。玄関を入ると、
おぉ! ワンダフルすぎ~! 天井には、こんなものが付いてました~!
目の前には、プライベートビーチなどというものがあるんですって。
そう聞いたからには、泳がねばなるまい……
ありゃ? 溺れてるのか? い…いえ、そうではなくて「ミロのビーナス」になったつもりでしたが……
友曰く「自由の女神だね!」 ……えぇっ?! ま…いいか……ビーナスも女神も同じ女だし……
砂浜が白くてさらさらで、どこまでも遠浅。所によって足元が岩場になって痛いのです。それでも子どもの時以来かもしれない「やどかり」などを見て、忘れていた夏休みの気分が蘇ったようでした。
さて、話はちょっと変わりますが、コンドミニアムには洗濯機が付いています(当然?)そこで、少しでもお持ち帰りの洗濯物を減らしたいと思ったのですが、洗剤を持っていませんでした。よって、洗剤を買いにコンビニまでドライブをすることに。
じゃ、じゃーん! アタシたちが乗った車~! 超~カッコよすぎ~!
せっかくだから、オープンカーにして走ることにしたのでございますね。そしたら、なんざんすか、妙に気持ちよくて「別人になったみたーい!」なんて言ったら、友人が「別人…28号?」なんてつまらないギャグを返してきました。それでも妙にうれしくて「べっつじん、にじゅうはちごぉ~!」なんて叫んでしまいましたわ。
嬉しさついでに瀬底橋を渡って、瀬底島にも行ってみることにしました。ああ…天国への橋みたい!(?)
そしたら、あ……ちょっと待って、ちょっと待って、お姉さん……バックが……
というのは冗談でやんすよ。運転したのは友人ですから。(^m^)
瀬底島では、小さなお店で沖縄ぜんざい(かき氷)を食べ、印刷ミスで値引きされていたコーヒーを2つ買い、幸せ満腹状態。
夜は歩いて10分弱のところにあるレストランで、夕暮れを見ながらBBQ。……は予約が取れませんでしたので、私たちは屋内で。ワラジほどの大きさのビーフカツレツを食べながら生ビールを飲み、次回はぜひBBQの予約を取ろう! と誓い合ってきたのでした。
部屋に戻ってからは、二度目の祝杯。庭のベンチに発泡酒とつまみを持ち出して、星の光と波の音でいい気持になっていたら、突然のスコール! 慌てて部屋に駆け込む時間、約15秒か20秒くらいでしたでしょうか……酔っ払い二人は大笑いしながら、ずぶ濡れになって部屋に戻ってきたのですが、その時にはすでに雨は止んでおりました…
何はともあれ、初めての沖縄は梅雨明けの関東のように猛烈に暑かったのですが、それすらも楽しく思える旅でした。
本日、長~くなってしまいましたので、この辺で終了させていただきます。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
二日目は辺野古に行って参りましたが、これは後ほどアップさせていただくかもしれません。……ええ、辺野古の海を潰すなんて何を考えているんだい、アホたれは……とついつい言いたくなってしまうもんで。
沖縄は琉球王国として独立したらいいと思いますよ、私は。ハワイを何度も思い出しましたけど、文化も伝統も街並も、日本じゃなくて外国ですもの……
辺野古の海を埋め立てるな~! に一票をお願いね!d( `ー´)q
↓ ↓ ↓
人気ブログランキング
]]>
やっと、フローリング完成!
http://anrianan.exblog.jp/21917583/
2015-07-01T14:10:00+09:00
2015-07-01T14:17:31+09:00
2015-07-01T14:10:56+09:00
anrianan
■住まい
おナカさんがクックとやってくることになり、家中の物を大移動しなければならなくなったとき、この廊下の突当りは、こんなふうになっておりました。
かれこれおナカさんが岩手に行ってから16年以上、その間に私の物たちがどんどん溜め込まれていました。カラーボックス1つを空にするにも1日かかる始末。どーん! と捨ててしまいたいのに捨てられない。何があるのかをチェックしながら、いらないけれど捨てられないもの(人からもらったり、新品だったり……例えば、以前のプリンターのインクとか、新品のMOディスクとか…)は、目をつぶって一気に「廃棄」の袋に放り込みました。そうしてようやく、廊下の壁に再会し、
低い段差を上げて、プチリフォームに取り掛かりました。
一般的には、幅の細い根太(ねだ)と呼ばれる木を30センチくらいの間隔で置き、その上に合板を張って最後にフローリング材を張るそうです。けれど、窓になっている面の根太は固定することができないため、合板を2枚重ねて敷きつめ、その上にフローリング材を張ってしまうことにしました。
先週末、ようやく残りの部分に着手することができ、
柱のでっぱりや、当初根太に使うはずだった板も無駄にせず、すべて敷き詰め、ようやく完成した廊下を歩きながら、おナカさんは「家らしくなった!」と大喜び。
ええ、クックも気持ちいいらしくこの上でペタリと寝るので、クック用のタオルを敷いてあげました。
ところで、最近の冷蔵庫ってずいぶんと大きいんですね。置く予定にしていた場所が、ことごとく高さが足りず(敷居にぶつかって扉が開かなくなるんですの)仕方がないので、台所に近い廊下の隅に設置することになりました。
これから暑くなることですし、当分冷蔵庫2台を使っていきます。
うっふぉふぉふぉ……! な~んて贅沢なんでございましょ! 冷蔵庫2台使えるなんて夢のまた夢でしたのに、ああ! 早くパンを焼いたりスイーツを作りたい!……
そして、次なる作業はおナカさんのテレビが映るようにすること、そして台所の前にテラスを組み立てること。本日は雨なので草刈り作業はできないし、今週末はちょいと出かける用が入ってしまっているし……なかなか思うように進みませんが、これからの改善計画をしょっちゅうおナカさんと語り合い、妄想族は雑草のようにどんどん伸張しております。
少しずつ、お互いの物をしまう場所やキッチン用具の使い方を調整しながら……もう少し経ったら、何の問題も起こらずに日々の時間が流れるようになるに違いありません。……ふぅ……
二人が言い合っていると、クックはビー玉のような目をジッと見開いたまま、私とおナカさんを交互に見ています。どっちが「ボス」なのか見極めようとしているようにも思え、ケンカをしているんじゃないかと不安になっているようにも見え、それでも二人の傍らにいるのがうれしいらしく、いつもどちらかにくっついて歩いています。あるいは、寝ています……
座敷だったり、脱衣所だったり、玄関だったり、廊下だったり、
財宝温泉水をよく飲み、一緒に毎朝カフェオレも飲み、食欲もあり、出すものも出し、波打ち際も怖がることなく、クックはあっさり馴染んでくれているようでホッとしています。
只今おナカさんは(社交)ダンスのレッスン。
岩手に引っ越す前に通っていた先生や仲間と再会して楽しんでいることでしょう。
低速ギアで進み出した熟女と熟々女と熟美犬…にポチッと応援してくだされ。d(´ー`)
↓ ↓ ↓
人気ブログランキング
]]>
まだまだ、断々捨々離
http://anrianan.exblog.jp/21907861/
2015-06-27T15:31:46+09:00
2015-06-27T15:31:46+09:00
2015-06-27T15:31:46+09:00
anrianan
■住まい
初めての場所に戦々恐々ながらも、興味津々のクック。
目ん玉をキョロキョロさせながらもニコニコして(?)あちこちを探索していました。
車の長旅は初めてでしたが、私を見て少々驚きながらも喜んでいるようす。(?)
やや興奮気味ではあるけれど、それはおナカさん(母)も同じ。ハイテンションのおしゃべりが続き、それだけでも私より十分にパワーがあることを実証しています……。
さて一夜明け、助っ人が二人来てくれました。一人はいつも助けてくれる例のスーパーマン、もう一人は父の親戚のヒロジおじさん。まずはピアノの移動を、と大人4人でヒーヒー…… あれ? 一番パワーがある怪獣(弟)はどこ行った? こういう時にいなくてどーするっ!
花巻からの荷物は昼前には届き、次々と家の中に運ばれてきます。庭にも物置やテラスなどが広げられ……
スーパーマンが草を刈って、土台の石を並べてくれました。台所の前にこんなに広いテラスができるのかぁ……と、荷物にゲッソリしながらも、かなりうれしい。
この上に防草シートを敷いて、テラスを組み立てます。でもその前に、これらの荷物を片づけねばなりましぇん……(:_;)
やたらとカラーボックスや布団が多いのです。……結局、何かを収めるためには何かを捨てねばならないのですが、はぁ~、まだまだ先は長いよ。
それでも本日6日目になると、どうやら家らしく(?)なってきました。ええ、おナカさん、そーとーガンバッテます。
でも、年には勝てません…… (ボー然としているおナカさん)
こちらは、すっかり自分のベッドを見つけてマイペースのクック……
16年ぶりに一緒に住むことになり、良いこともあれば良くないこともありますが、やがて母があちら側に先に帰ってしまうのですから(順番からいけば)、限られた時間をなるべく楽しく、笑って過ごす時間を多くしようね、と約束しています、一応ね。
末永く健やかな日々が送れますように…と景気づけのぽちっを押してくだしゃい…d(;´Д`)ハァ~
↓ ↓ ↓
人気ブログランキング
]]>
引っ越し
http://anrianan.exblog.jp/21890106/
2015-06-20T09:58:00+09:00
2015-06-20T13:44:45+09:00
2015-06-20T09:58:29+09:00
anrianan
■住まい
私の心も体調も、ごった返し。 というのも、母が16年の岩手暮らしに終止符を打ち、この家に引っ越してくるからです。ま、出戻り……ですな。
荷物は明日、おナカさん本人とクックは、弟が運転する車に乗って今夜来ます。
しかしですよ、こちらはすっかり二階家での一人暮らしに慣れてしまってるから、一階の部屋を空にするなんて、どーしたって無理じゃ~!!! 物が多すぎっ!
ということで、家にいる日はひたすら断捨離。 あぁ…疲れた~。
母の物がやってきたら、どこに何を置くかをいろいろ話し合った結果、きしむ廊下の補強を兼ねて張り直し、夢の壁一面本棚を作ることとなったのですが……
廊下は、まだ途中でごぜぇますだ……。
この突き当りに、ピアノを持ってくる予定なのですよ、明日……。
そのピアノは今、物に埋まってあそこにあります。
この家に来た15-6年前から、ずっとあそこにい続けたピアノ。今度は日の光が入る南の廊下に持ってくるという壮大な(?)計画。その隣にあった茶色の本棚を、ようやく移動したのが3日前の水曜日。
この本棚の前をうろつくのが大好きで、このごろ、しばしばここで「立ち読み」することが多くなりました。
それはいいのですが、奥の部屋も物置のようになっており、
これから廊下のフローリング材をもう少し張り足し、ソファーベッドを持ってきます。そして目の前のベッドの上を片付けねばなりません。今夜やってくる母と怪獣(弟)のために……。
ううう……吐きそう……。
ということで、いくらブログの更新をサボっていたからって、今こんなことをやっている場合じゃないぜよ~! と自分を叱咤激励して、いざっ! 出陣っ! ……(涙)
どうぞ、ぽちっとあっしに元気を与えてやってくだせぇ~!d(:_;)
↓ ↓ ↓
人気ブログランキング
]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/