『古事記』の中で、
黄泉の国のイザナミノミコトは、「一日に1000人を絞め殺してしまいましょう」といい、
イザナギノミコトは、「それなら、一日に1500人を生まれさせよう」と答えた。
それじゃあ人口が増加する一方だから、同じ人数にすれば良かったのに・・・。
という私のしょうもない意見はさておき、
人間の寿命は決められているという。 死に方がどうであろうとも、である。
宿命を「変えられないもの」、運命を「変えられるもの」、と江原啓之さんは言う。
私は非常に分かりやすいと思う。
ならば、「死ぬ時期」は宿命で、「死に方」というのは「運命」と言えるだろうか。
ただ、交通事故や病死などは、
「もしあの時、XXだったら・・・・」と悔やまれる場合もあるだろうけれど、
「その時」に死ぬことは決めて生まれてきていると言える。
神道では、「死」を「お国替え」と言う。
現世という「国」から、幽世の「国」へお帰りになったということか。
人生はよく「旅」に例えられるが、故郷に帰られたのだから「ご苦労さま!」なのである。
あちら側では、知り合いがみんな大喜びで出迎えると言う。
この世は「修行の場」だから、故郷に帰るまで障害物競走のように障害だらけ。
私は「生きているだけで一事業だ」と感じる。
あの世では、お金も仕事も病気も無いし、しかも「同じ(心の)階層」の人ばかりだから、
私などが帰ったら周囲には「優しくて、深い思いやり」をもつ人ばかりだ。(??!)
以前、「お葬式」について書いたことがあるが、
あれは死んだ人に「死んだよ」と伝えてあげる儀式だから、大いに泣いて
「ありがとう! ご苦労さま!」と言ってあげるのが良いらしい。
肉体は死んでも、魂は生きているのだ。 自分が死んだことを知らない霊も居る。
そういう霊がさまよってしまうらしいのだ。
死んだばかりだと、まだ生前の気持ちのままオロオロと側に居ると思った方がいい。
しかし、
その後あまり泣いていると、死んだ人も呆れて困り果てているらしい。
泣いて後を追う幼稚園児の姿を、私は連想する。
最初は「可愛いんだから」と微笑ましく思っても、それがずっと続くと
「いい加減にしなさい!」。
最近は「安楽死」や「脳死」が話題になることが多い。
「脳死」とは、
幽体が肉体から剥がれ切れず、一部が繋がったままフワフワとしているとのこと。
幽体がスッと離れると「死」という状態になるが、繋がっているということは「死んでいない」ということになるのだろうね。 だからチューブを止めてしまう、治療を止めてしまう、というのは、「生」を切断することになるのだ。
しかし、この世では治療にはお金が必要であるし、それぞれに生活があるから、一概に「これが正しい」と私には判断できない・・・・。難しい問題だと思う。
ただ、こういう記事を目にしたり、親しい人の「死」に直面すると、
私の大切な人が死んだら・・・・と、置き換えて考えてみる。
頭で理解しても、感情が押さえきれないだろうし、悲しみに耐えられないだろう。
だけど、誰もがこの世を修行の場として、親を選び、環境を選んで生まれて来た。
日々の生活の中で生まれて来た課題に挑み、体験し、
出会いという運命を経て、無事に今世の旅を終えて帰って行った・・・・。
そのことを、何度も頭の中で繰り返して自分に言い聞かせるだろう、と思う。
「ありがとう」
「ご苦労さま」
やっぱり、この言葉が出てくるんだろうな・・・・・。
そして、「あとで(お国替えしたら)また会いましょう!」ということなのだろう・・・。