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お父さん
2014年10月7日(火)午後9時52分、父が急逝しました。82歳5か月。
その日、父は社交ダンスのサークルに行って楽しい時間を過ごし、夕方4時半ごろから母と食事をしながら焼酎やワインを飲み、大好きなNHKの歌番組を見ながら涙を流し、母に(珍しく?)優しい言葉をかけ、クックに添い寝などした後、体が冷えたから風呂に入ってから寝る、と言って8時ごろお風呂に入り、そのままあの世に帰りました。
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私には、花巻警察署の刑事さんから電話がありました。当日の夜11時過ぎのことです。
その前に、両親の知り合いから「お父さんが倒れたみたい」と電話があり、母と電話で話していたので、救急車を呼んだことは知っていました。けれど、まさか、まさか、父が死ぬなんて・・・・・・。
それまで病気一つせず、雪道事故などでも怪我一つせず、虫歯は一本もなく歯医者さんから表彰され、母よりも長生きをするだろう、と思っていたのです。
「ナントカ世にはばかる」っていうじゃない、なんて言っていたのです・・・・・・。


父は昭和7年5月3日横浜生まれ、生まれた時から語呂のよい数字でこの世に降りてきました。
三人兄弟の長男として生まれ、第二次世界大戦中は母親が内職で使っていたミシンの頭部分を背負って、雨あられのように爆弾が降る横浜空襲の中を逃げ回ったと聞いたことがあります。祖父母の実家がある栃木に疎開もし、食べ方が遅かった父は嫌味を言われたり、随分辛い思い出があったようです。
47歳で亡くなった父親と同じ船乗りになりたかった父は、商船学校へ行くことが夢でした。しかし、15歳の時に家計を助けるために鉱山に行くよう母親と親類たちに説得され、この夢を断念せざるを得ませんでした。親戚の間では「(父は)頭が良かった」と評判だったとよく聞きますから、本人はさぞかし悔しかっただろうと思います。毎朝、新聞を隅から隅まで読んでいた姿は、その時に諦めた学問への思いだったのかもしれない、と思ったりします。
<※20歳、横浜の写真館にて>
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15歳で始めた仕送りは、その後何十年も続きました。
結局、鉱山で一年のブランクを経て念願の受験に行きましたが、やっぱり一年のブランクは大きかったんだよなぁ・・・と、後に話した父の声が蘇ります。

結婚前は、収入が良かった米軍基地で働きました。
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結婚と同時に安定した地方公務員職に変えましたが、母に横須賀を案内していた時、道端から飛び出してきた米軍兵たちと英語で話した父を「オトーサン、格好良くてさぁ~!」とおナカさん(母)は言っていました。
上大岡(横浜市)のわらぶき屋根の家に住んでいたころ、たまに父が持ってくる大きなブロックのハムや巨大なチーズは、その頃の名残だったのでしょう。
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二人の弟と母親のために自分の夢や希望を犠牲にした思春期を送り、温かい家庭を求め、広大な農地で農業をするためにブラジルに行きたいと憧れ、アルゼンチンタンゴを愛し、知識欲と好奇心がいっぱいだった青年は、株や方位学なども学び、厳しい現実社会を地道に生きていこうとする人間でもありました。
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祖母は20歳の時に、13歳年上の福松さんに嫁ぎました。
彼女は田舎の地で、当時「殿様」と呼ばれていた藩主の落とし胤だったとの噂もあり、そのせいか家の中でも特別の扱いを受けていたそうです。食事の時は長男と同じ一番高い雛壇に座っていたというエピソードがあり、野良仕事はせず、ハーモニカを吹きながら田んぼ道を歩いていた、といわれるおコウさん。ちなみに、現栃木県知事の福田富一氏は父といとこ同士になります。
苦労知らずのお姫(ひい)さまとして育った若い母親から、父は一体どれだけの愛情を注がれたのか・・・・・・。
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それでも母親は母親。特に男性にとっては、母親というのは唯一温かい女性性を感じ得る特別の存在なのでしょう。
そんな父が選んだ結婚相手は、おコウさんとは正反対のおナカさんでした。母は農家の長女に生まれ、両親に頼りにされて、幼いころから妹や弟の世話をし続け「お便所の掃除は毎日お母さん(自分)の仕事だった」というように、働き者で夫や子どもに一心に尽くし、忍耐強い女性です。・・・ええ、下の玉のような子はワタシです。
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宝川温泉に行った時の写真です。
子どものころにあまり温かい家庭に恵まれたとは言えない父は、彼の中で描く家族を持ちたかったのだと思います。
夫唱婦随といいますが、わが家では父の言うことがすべてでした。
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家を建てるために節約して、わらぶき屋根の家に住んでいたころ。
幼かった私は別に惨めな思いをしたなどという記憶は全くありませんが、戦時中も農家で食べ物に困らずに育った母は「この家を見た時には悲しくて泣きたかったよぉ」と言っていました。
この頃の父は、厳しくて怖い・・・という印象ばかりです。私はスパルタ教育で躾けられましたし、写真の弟は笑っていますが、父親に抱かれて笑うまでになかなかの時間を要しました。とにかく「おとうさんは怖い」が母と姉弟共通の認識でした。まさに、地震・雷・火事・おやじ・・・・・・。
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それでも、お父さんはカッコイイというのが私の自慢でもありました。母親から「見合いの写真を見て一目惚れしちゃってさぁ!」と聞かされていたからなのか。・・・私は父親に似ていて良かったと母親に言われ続けてきましたが、こうして昔の写真を見てみると、私は父親似じゃなくて母親似じゃないか・・・と思ったりします。でも、気質や気性、性格、物事の考え方、志向などは父とそっくりで、それ故にお互い反発し、通じ合うものも大きかったのでした。
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年老いてからこそ、父はよく母と旅行に行ったり一緒に(社交)ダンスをしたがっていましたが、若い頃の父は一人旅が好きで、特に船乗りになりたかったせいか何度も船旅をしていました。
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私が進路を決めるころ、父は自分の夢を私に託したかったのか、盛んに海上保安庁に入ることを勧めました。しかし私は父の意向に従わず、この時を境にその後何度も父とは衝突を繰り返してきました。・・・私は父のように自分の人生を犠牲にしたくないという思いや、すべてを父に見透かされているように感じることが悔しく、会社を辞めたり海外に行ったり・・・。父を越えたいという思いもありました。けれど、そうして勝手気ままに生きているような私に我慢できなかったのだと思います。十年以上も勘当されて口を利いてくれない時期もありました。
弟はそんな私とは正反対に、父の勧め通り自衛隊に入隊。この写真を見ると、父が嬉しそうで、誇らしげでもあり、弟は親孝行したな・・・と思います。彼は、今も国のために働いています。
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何かににつけて「お前と結婚したのは一生の不作だ」と母に言っていた父ですが、小難しいことを考えも言うこともせず、こうして能天気で楽天的な母に父は救われた部分が大いにあったであろうと。・・・
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普段は寡黙な父ですが、酒を飲むと陽気な人間に変わるので、父に叱られると母はいつも「今夜はオトーサンの好きな物を作ってさぁ・・・」と、買い物をしながら酒の肴のことばかり考えていました。要するに、酒を飲ませて父のご機嫌を直す、というのが母の常套手段でした。というか、これしか手がない・・・。
両親が五十代のころだったと思いますが・・・酒を飲めなかった母が父との晩酌につきあっているうちに飲めるようになり、私が帰ると玄関に1リットルや500ccのビールの空き缶がゴロゴロ転がっていることがありました。中に入っていくと、二人ともすっかりラテン系のノリで愉快に笑い転げている光景が・・・呆れたけど、なんだか嬉しかったです。
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父は退職できる時期がくると速攻で仕事を辞めました。
「これからがオレの人生だっ!」と両手をグーにして突き上げた姿が目に浮かびます。
家庭を築くために本意でない仕事に就き、稼ぐためと割り切って仕事をし、家のローンを返したのだから、これからはやりたいことをやるぞっ! というところだったのでしょう。

そのやりたいことの一つ目は、中国への留学でした。
十年以上中国語をラジオとテレビの講座で独学し、西安の外語学院大学に二年間の語学留学をしました。
「オレが(中国に)いる間にお前が来るなら、旅費から何まですべて出してやる」と言われたので、欲深い私は、嫌いな中国だけどこの際行ってくるか・・・と、上海経由で西安へ十日間ほどの旅をしてきました。
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父は外国人留学生の寮で、一部屋(二人用)を月一万円で借りていました。
私はもう一つのベッドに寝て、朝になると父に連れられて割箸とプラスチックの丼を持参し、道端に並んでいる出店で豆腐やおかゆやうどんなどを食べました。夜、シルクロードに行った時に買ったお酒だぞ、と父が差し出す変わった形のビンから、小さなコップに注いでもらったお酒を飲みながら、こういう時間がほしかったんだなぁ・・・と泣きそうになったことを覚えています。それは前世の記憶というのか、魂の深いところからの声というのか、不思議な感覚でした。・・・
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中国での父は、多くの学生や若い教授たちに「老師」と呼ばれ、慕われ、とても幸せそうでした。
あの怖かった父が、こんな仏のような顔になっている・・・と、内心私はひどく驚きました。ああ、人間って「いるべき場所」というか「好きな場所」というか、心から満足できる時空間にいると、こんなにもいい顔になるのだなぁ、としみじみ感じました。
この写真に一緒に移っている若い夫婦は、当時西安外語学院大学の教授を務めていました。その後日本に来て仙台に住んでいると聞きましたが、今はどうしているのでしょうか・・・。この時に父を通じて出会った中国人は皆教授など知識階級の人たちで、物腰や話し方など一般市民とは大きく異なり、私の中の中国人像も変わりました。お父さんにもらった宝物の一つです・・・。
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いつも父が得意げに「安くて旨い」と、古くて汚い店で食べることが多い食事でしたが、何度かはちゃんとしたお店にも行きました。ある時は、知り合いの四川料理屋さんで山盛りの料理を出してもらいました。そのお店の人が「お金はいらない」と受け取らないので、二人でこっそりお皿の下にお金を“置き逃げ”することに。目配せしてサッと席を立ち、足早に店を出るとまもなく、後ろからお店の人の呼ぶ声が。父と二人で大笑いしながら走って逃げました。
写真は、飲茶(ヤムチャ)で一番と評判のレストランに行った時のものです。いろいろな種類の餃子を食べました。もっと写真を撮っておけばよかった、と悔やまれます・・・。
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中国から帰国して、父は再び中国に行って「通訳の資格を取る」はずでした。
「中国なら百万も持って行けば王族のような暮らしができる」と父がいい、母は「いーよ、百万でも二百万でも持って行きなよ。向こうで世話してくれる女の人がいたっていいんだよ」。現地妻の了解まで得ていたのに、父はなぜか中国には戻らず宮守(岩手県遠野市)に土地を買ってしまったのです。

その土地を見た瞬間に「恋人に会ったように一目惚れだったんだ!」だそうです。
「農業がイヤでこっちに結婚して来たのに!」と抗議する母と三年間離れて暮らし、すったもんだの揚げ句、母は渋々移住を決断。
この地で意外にも、父の中国での経験が生かされる機会が訪れました。教育委員会から依頼を受け、中国人親子の通訳をすることになったのです。毎日だったかどうかは忘れましたが、子どもの通訳のために小学校に一緒に行ったり、母親の話を聞いたり。その後、教育委員会から表彰されたそうです。
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この頃両親はもう六十代後半。お互いに頼り頼られ、文句を言いながらも、一人で暮らすよりは誰かと寄り添っていきたい年齢期に入っていたのだろう、などと思います。
中国で習得してきた太極拳を父は毎朝欠かさず、蜘蛛膜下出血で一度倒れている母も一緒にすることが日課になっていました。(なぜか二人の動作が違いますが・・・・・・)
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そもそも、父のもう一つの夢である「広大な農地で農業をやる」。今更ブラジルには行けないけれども、手打ち蕎麦の腕をあげていた父は「蕎麦の粉から作りたい」という目標を達成したのでした。(※下は、一面の蕎麦畑です)
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「ブログに載せるから」と写真を撮る私に、うんちくを垂れながら粉をひく父。 (2006年に載せています
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蕎麦を打つ過程も写真を撮っていたら、頭が薄くなっている写真なんか撮るなよ・・・と。
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時には、蕎麦打ちを教えてほしいと来る人もいました。またある時は、店を出さないかという話もたびたび。
つい最近では、週一回でも好きな時に店を開いてくれればいいから、と信じられないような話も持ち込まれていたそうです。・・・ホントにおいしかったです、父の手打ち蕎麦。
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お父さん_d0046294_14543956.jpg宮守の土地が売れて、明け渡してほぼ一年。花巻に越してきてから、毎日ダンスに行く以外、まったく何もせず、三食を食べる以外はよく昼寝をしていました。気が抜けてしまったのかもしれないと心配していました。

だから言ったのです。
「横須賀の庭で野菜を作りたいから、いろいろ教えてよ。どこにどれを植えたらいいとか、いつ何をしたらいいとか・・・3-4カ月に1回でも半年に1回でも横須賀に来て、その時に指示を与えてくれればいいんだから。寒い時は横須賀に行って、暑い時には皆でこっちに来て。こうしてお父さんは二つの家があるんだから、別荘だと思って楽しめばいいじゃ!」

今年の暮れは、久しぶりに横須賀で家族が揃うはずでした。・・・・・・


毎年宮守で過ごした暮れは、雪かきが年末年始のイベントでした。長い長い100メートルほどの私道の雪を家族でかきました。トラクターに乗って登場する父は、ガガーッと雪をかきながら、いつもちょっと得意げでした。
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父が亡くなる数週間くらい前から、異常に父とクックが仲良しになっていたと母は言います。
物言わないクックに慰められ、なだめられ、諭されながら多くのモノを受け取っていたに違いありません。
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「お父さん!」「なんだい、クック・・・」
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お父さん・・・・・・!
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毎晩父に抱かれてひとときを過ごすのが、クックの日課でした。
その父が亡くなってからのクックは、いかにも挙動不審・・・遠くをジッと見て動かなかったり、父が寝ていた部屋に入ろうと何度も足を出しながら入らなかったり、奥の部屋に行ったまま、なかなか出てこなかったり・・・。
このごろようやく「散歩でぴょんぴょん飛び跳ねるようになったよ」と母から聞いてホッとしています。
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あまりに突然のことで、信じられない思いと二度とこの世で会うことはできないという悲しみが大き過ぎて、まだ気持ちと感情の整理ができません。・・・
でも、時間が解決してくれるのでしょう。
それよりも、いろいろな手続きに追いまくられ悩まされ、私は何度も心の中で「お父さん、あんまりじゃないの! もう私にはできない!」と声を上げるたびに、父はちょっと困ったような笑みを浮かべた顔で「ま、かぁーちゃんを頼んだよ」と私に言うのです。・・・

父と私でお酒を飲みながら議論が始まると、母は呆れかえっていましたが、毎回大いに盛り上がり白熱したものです。もう二度とああいう時間はないのだと寂しく思います。父娘そろって辛辣で毒舌で理屈っぽくて、でも時代小説の侍のように正義を貫き裏表がなく、カネや権力で動く政治家や会社の上の人間たちを二人でバッタバッタと叩き斬るのです。お父さん、今年の暮れにも聞いてもらいたいことがあったんだよ・・・。
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なんだよ・・・花に包まれてなんだか笑っているみたいじゃないか。
なんで最後の一言ぐらい言わせてくれなかったのさ!  ・・・・・・ありがとう、って。
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火葬後、真っ白であまりに美しい骨に驚きました。骨壺に入りきらず、5-6回潰されながらようやく納められました。
まさに「骨のある男」だったね。

お父さん・・・・・・

すべての人が幸せな人生を送れますように、ぽちっとお願いね。d(:。;)
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by anrianan | 2014-10-29 14:43 | ■とりあえず日記
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