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人が死ぬということ・・・・・・
『古事記』の中で、
黄泉の国のイザナミノミコトは、「一日に1000人を絞め殺してしまいましょう」といい、
イザナギノミコトは、「それなら、一日に1500人を生まれさせよう」と答えた。

人が死ぬということ・・・・・・_d0046294_7365174.jpg


それじゃあ人口が増加する一方だから、同じ人数にすれば良かったのに・・・。
という私のしょうもない意見はさておき、

人間の寿命は決められているという。 死に方がどうであろうとも、である。


宿命を「変えられないもの」、運命を「変えられるもの」、と江原啓之さんは言う。
私は非常に分かりやすいと思う。
ならば、「死ぬ時期」は宿命で、「死に方」というのは「運命」と言えるだろうか。

ただ、交通事故や病死などは、
「もしあの時、XXだったら・・・・」と悔やまれる場合もあるだろうけれど、
「その時」に死ぬことは決めて生まれてきていると言える。



神道では、「死」を「お国替え」と言う。
現世という「国」から、幽世の「国」へお帰りになったということか。

人生はよく「旅」に例えられるが、故郷に帰られたのだから「ご苦労さま!」なのである。
あちら側では、知り合いがみんな大喜びで出迎えると言う。

この世は「修行の場」だから、故郷に帰るまで障害物競走のように障害だらけ。
私は「生きているだけで一事業だ」と感じる。
あの世では、お金も仕事も病気も無いし、しかも「同じ(心の)階層」の人ばかりだから、
私などが帰ったら周囲には「優しくて、深い思いやり」をもつ人ばかりだ。(??!)


以前、「お葬式」について書いたことがあるが
あれは死んだ人に「死んだよ」と伝えてあげる儀式だから、大いに泣いて
「ありがとう! ご苦労さま!」と言ってあげるのが良いらしい。
肉体は死んでも、魂は生きているのだ。 自分が死んだことを知らない霊も居る。
そういう霊がさまよってしまうらしいのだ。
死んだばかりだと、まだ生前の気持ちのままオロオロと側に居ると思った方がいい。

しかし、
その後あまり泣いていると、死んだ人も呆れて困り果てているらしい。
泣いて後を追う幼稚園児の姿を、私は連想する。
最初は「可愛いんだから」と微笑ましく思っても、それがずっと続くと
「いい加減にしなさい!」。


最近は「安楽死」や「脳死」が話題になることが多い。
「脳死」とは、
幽体が肉体から剥がれ切れず、一部が繋がったままフワフワとしているとのこと。
幽体がスッと離れると「死」という状態になるが、繋がっているということは「死んでいない」ということになるのだろうね。 だからチューブを止めてしまう、治療を止めてしまう、というのは、「生」を切断することになるのだ。
しかし、この世では治療にはお金が必要であるし、それぞれに生活があるから、一概に「これが正しい」と私には判断できない・・・・。難しい問題だと思う。


ただ、こういう記事を目にしたり、親しい人の「死」に直面すると、
私の大切な人が死んだら・・・・と、置き換えて考えてみる。
頭で理解しても、感情が押さえきれないだろうし、悲しみに耐えられないだろう。

だけど、誰もがこの世を修行の場として、親を選び、環境を選んで生まれて来た。
日々の生活の中で生まれて来た課題に挑み、体験し、
出会いという運命を経て、無事に今世の旅を終えて帰って行った・・・・。
そのことを、何度も頭の中で繰り返して自分に言い聞かせるだろう、と思う。

「ありがとう」
「ご苦労さま」

やっぱり、この言葉が出てくるんだろうな・・・・・。

そして、「あとで(お国替えしたら)また会いましょう!」ということなのだろう・・・。
by anrianan | 2006-04-18 07:24 | ■心・精神・魂
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